今日も愚直な雪がふり
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にゐるのは一つの典型。
一つの愚劣の典型だ。
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さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる小屋、
小屋を埋める愚直な雪、
雪は降らねばならぬやうに降り、
一切をかぶせて降りにふる。
典型/昭和25年
光太郎をしのび命日の4月2日には「典型」の冒頭の詩“雪白く積めり”の詩碑前で連翹(れんぎょう)忌が、5月15日には高村祭がおこなわれます。
明治16年 | 1883 | 0歳 | 下谷区西町に父・光雲、母・わかの長男として誕生。 |
明治20年 | 1887 | 4歳 | 病弱だったが、この頃から健康になる。 |
明治21年 | 1888 | 5歳 | 練塀小学校休学。彫刻への道は決まっていた。 |
明治30年 | 1897 | 14歳 | 東京美術学校予科に入学。 |
明治35年 | 1902 | 19歳 | 東京美術学校を卒業し、研究科に残る。 |
明治36年 | 1903 | 20歳 | ロダンの彫刻をはじめて知る。 |
明治39年 | 1906 | 23歳 | 2月に渡米。ニューヨークでは彫刻ボーグラムの助手・美術学校の夜学生。 |
明治40年 | 1907 | 24歳 | ロンドンに渡りバーナード・リーチを知る。 |
明治41年 | 1908 | 25歳 | パリに渡る。 |
明治42年 | 1909 | 26歳 | 帰国を決意、イタリアを旅し日本に帰る。以後、さかんに新芸術を紹介。 |
大正3年 | 1914 | 31歳 | 詩集『道程』を刊行。智恵子と結婚、貧窮のうちにも充足した生活がはじまる。 |
大正14年 | 1925 | 42歳 | 母わか没す。 | 大正15年 | 1926 | 43歳 | 宮沢賢治、アトリエを訪問。 |
昭和9年 | 1934 | 51歳 | 智恵子の統合失調症悪化。父光雲没す。 |
昭和11年 | 1936 | 53歳 | 宮沢賢治碑のために「野原ノ松ノ林ノ……」詩揮毫。 |
昭和13年 | 1938 | 55歳 | 智恵子がゼームス坂病院で没す。 |
昭和20年 | 1945 | 62歳 | 4月13日、空襲によりアトリエ炎上。5月に花巻町の宮沢清六方に疎開。肺炎臥床。8月宮沢家戦災。終戦を迎え、10月に稗貫郡大田村山口の小屋に移り、農耕自炊の生活に入る。ここに新しい文化の創造を夢みて、詩や多くの書作品が生まれる。 |
昭和27年 | 1952 | 69歳 | 十和田国立公園功労者記念碑の彫像制作を決意し帰京。東京のアトリエで自炊生活がはじまる。 |
昭和28年 | 1953 | 70歳 | 記念碑十和田湖畔休屋に除幕。来花。小屋に行き志戸平などに滞在。 |
昭和30年 | 1955 | 72歳 | 4月、山王病院に入院。 |
昭和31年 | 1956 | 73歳 | 4月2日早暁、中野のアトリエでその生涯を閉じた。 |