高村山荘〜高村光太郎記念館

高村光太郎〜その愛と美の結晶

わがこころは いま大風の如く 君にむかへり

光太郎は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年5月、以前から知己の間柄だった宮沢賢治の弟、清六の家に疎開しました。しかし、その宮沢家も戦災をうけ、転々としたあとこの杉皮葺の屋根、荒壁、障子一重の窓の畳3畳半の山小屋で“山居7年”の孤独な生活が始まりました。光太郎62歳の時です。
氷点下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔にも雪がかかり、生きているものは自分と何匹かのネズミだけ。炎暑の夏には、蚊やブヨに悩まされての厳しい毎日でした。
亡き妻智恵子の幻をおいながら、自らの手で自らの生活を守り、真と善と美に生きぬこうとした高潔そのものの理想主義的な生活でした。この“山林孤棲”の日常から愛と美の結晶というべき作品が生まれていきました。 十和田湖裸婦像試作

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る

童女のようだった亡き智恵子を追慕し、戦争詩を書いたことを内省する日々の中から、連作詩「暗愚小伝」、詩集「典型」、詩文集「智恵子抄その後」などの傑作を生み、その精神世界をこの花巻の地で大成させました。しかし、昭和27年に十和田湖畔に建設する「裸婦像」制作のために上京し、その完成の後、岩手に戻ることなく東京で没しました。 裸婦坐像

野兎の首ブロンズ像

原型は光太郎の死後、山小屋の囲炉裏の中から発見されました。光太郎が山居7年で残した唯一の彫像。 野兎の首ブロンズ像

ロマ書

光太郎の芸術は、第1が彫塑、第2が文芸、第3が書と画といわれますが、数多くの遺墨が残されています。
「書などといふものは、実は真実の人間そのもののあらはれだ」と言った光太郎の人間の高さ、深さが感じられます。 ロマ書

日時計

7年の生活の中で光太郎が果そうとしたのは、近代日本の宿命に重なる自分への痛切な点検でした。風と光の人、光太郎は一枚の板に雫のようなすき間を彫り込み、静かに洩れる光で時刻を知ったのでしょう。まるで、再生への願いを込めるかのように…。 日時計

智恵子切抜絵「いちご」光太郎短歌入

強い愛の絆で結ばれた病める妻、智恵子との愛の絶唱です。光太郎にだけ見せるために作ったという千数百点の紙絵は、希有の美しさで誰もの胸をしめつけます。いちごの燃えるような赤は純粋性の結晶でしょうか。 智恵子切抜絵「いちご」光太郎短歌入